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立川文都師匠とノルウェーの森~SFと童貞と落語:笑福亭羽光

笑福亭羽光

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令和2年度NHK新人落語大賞受賞など、数々の受賞歴がある笑福亭羽光師匠。ただ闇雲に走り続けたのではなく、指針となる方がおられたのだそう。それは平成21年10月29日に胃がんで極楽座に旅立たれた立川文都師匠

今回はその立川文都師匠の思い出をつづっていただきました。笑福亭羽光師匠の想い、一緒に受け止めてください。

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立川文都師匠とノルウェーの森

 村上春樹の【ノルウェーの森】を再読した。大学生の時以来だから内容もほとんど忘れていたので新鮮な気持ちで読めた。死は生と対局にある物ではなく、死と共に生きていく。……というテーマが色濃く提示されている事に気づく。主人公は学生時代に友人を亡くし、その喪失感を抱えて生きる。やがて恋人も亡くす。他の村上春樹の作品のように、異界へ行く設定ではなく現実に即した作品だ。それなのに、ラブストーリーの中に【死】のテーマが全面に押し出され、【幽霊】は登場しないのに、【幽霊】を常に感じさせる。暗い悲しい雰囲気がずっと漂っている。人は死んでも、残された人に影響を与え続ける。

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 落語家になる時、背中を押してくれた一人に、大阪学院大学の先輩の立川文都師匠がいる。

僕より10年以上先輩なので、学生時代はお会いした事はない。OBとして部室にも来られなかった。

文都師匠は学生時代、【お笑いスター誕生】という人気番組に、落研時代のコンビ、マルあんどマルとして出演して人気を得た。文都師匠の相方だった先輩は、僕や現役部員に漫才を教え、僕を漫才師に導いた。

文都師匠はコンビ解散後、演劇したりしていたが、やがて家元に入門する。前座時代は「関西」、二つ目時代は「談坊」という芸名で活躍されておられた。レギュラー番組は欠かした事無くNHKのラジオのレギュラー番組も持っておられた。芸に厳しく、師匠鶴光に何席か習ったという。

2007年の僕が入門する2年前くらいから、東京に居てる大阪学院落研部員と文都師匠とのお付き合いが始まった。文都師匠の家で鍋をしたりして飲み会をよく集まったのだ。そこで話してくださる噺家としての生活は魅力的だった。僕がやっていたコント集団爆裂Qがうまくいかなくなってきていたので、僕は噺家に憧れを持ち始めていた。

やはり一番の噺家の魅力は、バイトしないでも生活出来る事だった。その代わり厳しい修業期間がある。それさえ乗り切れれば……と感じた。

 師匠鶴光に入門を許可された日は、入門志願した日と同じであるのだが、その帰りに上野広小路亭の立川流の寄席に行った。文都師匠が出ておられたのだ。まっさきに入門決定の挨拶しようと思った。

文都師匠はおられなかったので、帰宅後、自宅に電話した。僕が報告すると、まさか本当に入門するとは思っておられなかったようで、驚いておられた。

芸協はいじめがあるから、特にお前みたいな関西人でお笑いやってたような奴はいじめられるから気をつけるように……とアドバイスされた。

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 前座修行2年目で文都師匠から初めて仕事をもらった。先輩から他協会の師匠になった瞬間だったので、その日は厳しかった。

2年目以降、またちょくちょく接するようになった。よく夜中に酔って電話してこられた。

電話の内容は、【上方落語をここ東京でやる事……の意味】とかどうあるべきか……という事だった。

数年後、癌が発覚した。マンションを引き払う……という事で、まず太鼓をもらった。ハメ物入りのネタをしながら太鼓と見台を車に積んで一座を組んで各地を回る……という夢があったそうだ。

年老いたお母さまと、僕と立川わんだ兄と文都師匠で、家の片付けをした。酒を禁止されていたが、まあええか……と言って結構飲酒されていた。

死ぬと判っている人と、その泣きはらしたお母さんと、芸人二人で飲酒しながら焼き肉……という不思議な光景だった。

死ぬと判っていても、冗談を言い、まるで癌が嘘のようにふるまう。芸人の最後はこうあるべきだと思う。かっこよく明るいのだ。

そして数か月後、落研の先輩から文都師匠の訃報が入る。死ぬ数日前、意識が混濁した状態でもツイッターかブログをやっておられた。その内容は明るく、死とは無縁の物だった。

 多分、孤独に死と向き合っておられたのだろうが、その苦しみは僕にはもらされなかった。

僕は前座4年目。あまり人には言えないが、寄席をよくさぼっていた。訃報があった時も、たまたま寄席をさぼっていた日だったので、その足で新幹線に乗り通夜に向かった。

 通夜葬式では、花の出す順番を香盤順に並べたりして、上方落語にも詳しい芸術協会の前座として働けたと思う。

多くの人に見送られて、文都師匠は旅だち、居なくなった。

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日常に戻り、やがて二つ目に昇進した。

立川流の方から沢山仕事を貰った。生前文都師匠が「羽光をよろしく」と多くの人に言ってくださっていたと知る。

お母様と僕とわんだ兄さんで、遺品の整理をし、高級時計と着物類、スーツ等沢山もらった。僕は20年近くたった今でもそれを着用している。

文都師匠は居なくなってからも、僕に影響を与え続けた。

コンテストを勝ち上がる方法や、成金の中でキャラクターを確立する事、落語家として自分の特徴を出す事……全ての事が、文都師匠が悩み考えたあの問い、【江戸で上方落語をやる意味】……につながっていた。かくして、僕は2つ目という時代を文都師匠が残した宿題を引き継いで、自分に問い続けたのだ。

文都師匠が残した問い、【江戸で上方落語をやっている自分とは何か?】……という問いは、【自分とは何か?】【落語とは何か?】という問いに通じる。

僕も、その答えを探し続けた。そして【私小説落語】というパターンにいきついた。

今、東京で活動している上方落語家は多い。鶴光一門以外にも、上方落語協会に所属しながら、江戸に拠点を移している兄さん方もいる。この状況を文都師匠はどう思うだろうか。羨ましく思うだろうか。東西の垣根が昔よりどんどんなくなってきている。

 僕は今、文都師匠と同じ年齢になった。

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