上方落語家でありながら、東京でも活躍中の笑福亭鶴光師匠。ラジオやドラマにも精力的に取り組み、『うぐいすだにミュージックホール』といったヒット歌謡曲もある。これらから、鶴光師匠をマルチタレントのように思われている方も多いかと思われます。
しかし、鶴光師匠の真骨頂は落語。人情味あふれ温かい高座の原点は、修業時代にあります。今回は六代目笑福亭松鶴師匠に入門を許された後、修行の日々についてつづっていただきました。
修行
昭和42年4月1日。友達は大学に行ったり就職したり。私の落語家としての第一歩は桜満開の季節から始まりました。
通い弟子でしたので朝八時に行くと、師匠が起きてお茶を飲んでらっしゃいました。布団を片付けて部屋の掃除、師匠の朝ご飯の支度。前の晩すき焼きだったのでしょう。その残りにエビの天ぷら二匹入れてそれをおかずに大きな茶碗で二杯。凄い食欲。
終わると一息入れていよいよ落語の稽古。うちの師匠はどんなに寒くても浴衣を着てそれも上半身は裸。前にガラス製の大きな灰皿。イライラしてくるとその灰皿を持ってカタカタ言わせる。あの灰皿がいずれは飛んで来るのやないかと常にビクビクしたもんです。
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東京は寿限無から始まりますが上方落語は東の旅・発端のところ。
「ようやく上がりました私が初席一番叟でございます」
これを口さばきと申しまして滑舌を良くし大きな声を出す練習。まぁ早口言葉のような物です。三回稽古と言いまして5分くらいを三回しゃべってそれで終い。覚えられなければ取り残されてしまう。
一回目で粗筋を覚え二回目で細かく、三回目で仕草を飲み込む。これが無理と思うでしょうが人間の脳と言う物は不思議な物で、真剣に聞いてると覚えられるもの。終わるとすぐに犬の散歩、その間に繰り返せるようにと言う師匠の配慮。
寄席のある時は荷物を持って付いて行く。楽屋では師匠の用事やその他の雑用を色々やり、帰ると夕飯の支度そして帰宅と言うスケジュールが約4年続きます。
私と入った仲間や後輩も居りましたが、ほとんど辞めていきました。修行の辛さ、自分が思い描いた世界とのギャップ、人間関係諸々、そう言うので悩む人間が入って来てはいけない世界なんですね。
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噺家が少なかったのか2年くらいで寄席に出ることが出来ました。場所は通天閣でお馴染みの新世界新花月。日雇い労働者の町ですから、仕事にあぶれた連中が朝から安酒飲んで
押し寄せてくる。
受けるのは漫才や音楽ショーばかり。落語は悲惨。私の初舞台は一番最初で持ち時間は20分三回公演。
一番情けなかったのは、家が裕福では無かったので初舞台の着物が買えないこと。いつも着てるウールの安物しか持ってない。
朝、師匠の処へ顔出して
「今日から初舞台行ってきます」
と言うと
「お~行って来い」
楽屋へ行くとお茶子さん(楽屋の雑用してくれる人)が「師匠からの届きものですよ」と渡してくれる。中を開けてみると、黒紋付の羽織と着物が入ってました。メモ書きに【おめでとう】と書いてありましたがその字は涙でかすんで読めませんでした。
そこで母親の言葉が浮かびました。
「顔の怖い人は心は優しい」